kiririkun’s diary

歌って踊れるフリーのサラリーパーソンの社会派ブログ。 時事やエンタメをやさしく解説するよ。

大切な人が亡くなるということ

こんにちは、きりりです。

相変わらず天候が安定しない、着る物に迷う毎日です。

 

四月末に、きりりの本当に尊敬する先輩お二人が続けてお亡くなりなる、という悲しいことが続きました。

 

どちらも今の有り様で、親族だけのお通夜、お葬式となり、亡くなったこと自体知らされたのが五月に入ってから。

 

今はどんなに偉い方、あるいは有名な方でも家族葬を選ぶケースが多いですよね。きちんとやろうと思うとやたら面倒で、然も言い値ですからね。

 

でも今回はお葬式のお値段の話ではないのです。身内を亡くすことと、とても信頼していた他人が亡くなることの感情の差の話です。

 

きりりも随分と前に実父を亡くしたのだけれど、それなりの病気で入院し、先生からも、誤飲による肺炎の可能性を指摘され、それなりの覚悟をしながら看病が続きました。

 

きりりはサラリーパーソンなので、働きながらの介護だったけど、充分出来る範囲のことはできたかなとの思いがありました。

 

結果としては、平均寿命以上の命を全うし、胃瘻になったことだけは後悔はしているけれど、それなりの覚悟ができた上での寿命でした。

 

覚悟をする時間と、その経過もきちんとわかっていることは、死と向き合う時にとっても重要な要素になるように思います。

 

もちろん亡くなった時は悲しいけれど😭それなりの心の準備が出来る場合が多いですよね。

 

でも尊敬する先輩などの死は、突然の訃報としてやってくる。そろそろ会いたいな、と思いながらも、今度また、というとても曖昧な言葉で、前回別れていたり、メイルで今度会いましょう的な会話で終わっている場合が多いのです。

 

今度会いましょう程曖昧な挨拶は無く、殆どが口約束で日常のたわいのない、ことがらに紛れ、儚く散ってしまう言葉。

 

だから暫く会っておらず、心の隅に引っかかりながらも、日常を送っている身に、突然の訃報が舞い込むと、驚きと喪失感で、呆然としてしまう。

 

そう考えると、身内、身内でないを問わず、突然の喪失というものがボディブローとして人の心をとても痛ぶるわけです。

 

今までの不義理とか、もっとちゃんと接していればよかったとか。

 

こんな後悔をしない人生を送りたいと思っても結局また、同じ後悔の繰り返し。

 

最近は癌はむしろ早期発見ならば治癒できる病になりつつあるけれど、血管系の病、脳梗塞とか、心筋梗塞などは、突然にやってくる。

 

だから、大事な人とのお付き合いは、身内、身内でないを問わず、後悔のないコミュニケーションを取ることが大事なんですよね。

 

そのためには毎日毎日をルーチンだけに流されず、生きていくことも大切なんだなぁと改めて思いました。

 

当たり前だけれど、大事な出会いは一つ一つ大切に育んでいくということ。

 

今回は本当に私的な雑感です。

尊敬する先輩のご冥福をお祈り致します。

 

でも悲しい…