あいちトリエンナーレで思うこと
暑い日はまだまだ😵💦続いてますね
こんにちは、きりりです。
今回のあいちトリエンナーレ、津田某芸術監督による様々なことにいろんな批判があります。
きりりは門外漢ではあるけれど、仕事上、いろんな芸術祭と言われるものの、組織構造を調べてきました。
その組織論的考察から話したいと思います。
🔹実行委員会が必ず存在する
公金をかなり支出して行う、多くの事業は、組織委員会の下に実行委員会というものを組織するのが通例です。
組織委員会が、意外と首長であったり、その地方のお偉方だつたりして、この芸術祭をやることに概ね賛成だよ、と、した時に、
実際のテーマや展示物だとか、いわゆるキュレーションと言われるその展示物の選定方針などをきめ、その下にキュレーター、日本だと学芸員が並べ方などのくふつをしたりするわけです。
津田某はその頭を取る芸術監督という立場だったわけですね。
🔹確信犯的な思慮の浅い企画
https://aichitriennale.jp/about/concept.html
上記のURLが、あいちトリエンナーレの今回のコンセプトです。
きりりの理解力、読解力が足りないのか、だらだら書いてある割には何が
情の時代
のコンセプトなのか実にわかりにくい。
芸術はある部分わかりにくさを伴うものだけれど、前章で書かれている、
政治は可能性の芸術である、
という、ビスマルクの言葉から、次章において、急に難民問題などへの転換が行われていて、
それ以外の章の意味は殆ど修飾として書かれているように思われるのです。
つまりビスマルクの言葉を拡大解釈し、自分の政治主張の道具として使ったのではないか?と思わざるを得ないところがあります。
そしてこの実行委員会を組織する委員の皆様の政治的信条がかなり似通っているのも、気になります。
私はこの津田某のことを、この事件があるまで知らなかった無知な人間ですし、また、この実行委員会を組織していた、五人の人々は、今回このブログを書くために調べた程度の知識です。
でも公金を使う中でのプロセスとして、同じ穴の狢的な人々の集合体で良かったのか?
これを書いている間に企画アドバイザーという方がいた、ということを、この方のブログで初めて知りました。
その方も最終展示物、展示方法を知らなかったという、非常に税金を投入する事業としての危うさを感じざるを得ないわけです。
🔹影響力を徹底的に論議したのか?
まさに津田某が、書いている通り、情の時代であるわけです。
しかも公金を使い、また、ホワイト国から格下げという、日本政府にしては、大胆な手段を取った、或いはこの企画中にも、いろんなことが起きたばかりの国相手のものが多数展示されているわけです。
どこまで真剣に議論をしたのか?
本当に、世の中に表現の不自由さ、
の論調を投げかけるのであれば、しかも公金を使ってやる場合は、もっと慎重な議論が必要なのではないかと、きりりは思う。
確かに言葉狩りなど、某有名作家が一時期断筆宣言をするほど不自由な世の中になりつつあることは、きりりも怖いな、と思う。
だけど、脅しに屈して止める程度のものなら、やるべきではなく、勝手にご自分のお金を使ってやるべき話なんです。
二代前の天皇だからいいでしょ的発言は、軽過ぎて、呆れてものが言えない。
🔹まとめです
そう、誰も真剣に税金を使うことでの芸術祭の重みを考えず、思慮の浅い企画と行動を取ったために、表現の自由が脅迫や、政治の圧力によって、屈するという事例を作ってしまった。
この責任は一体だれが取るのでしょうか?
どこかの新聞社と同じくらい無責任極まる話です。
令和は、もっといい時代にしてほしい。